平成15年11月大原富枝文学散歩道が完成しました。「清蔵釣井」を第一号に、大原富枝の想い出深い場所に順次、案内板を立て、十基が設置されています。
文学散歩道は、大原富枝文学館の「文学碑」をスタートに「大原文学芽生えの館」まで約5.4キロのコースです。案内板には、故郷を舞台にした大原の作品と、大原と故郷の係わりが書かれており、高知県吉野村で過ごした28年間の流れをたどることができます。
大原文学の足跡をたどれば、日本全国に広がりますが、「文学散歩道」に設けた案内板は大原の故郷が中心で、「大原富枝ふるさとの散歩道」ともいえるものです。
大原富枝ふるさとのこみち里程表
- 文学碑
平成4年9月28日、大原富枝満80歳の誕生日を記念し、文学碑第1号として建立した。碑文は『婉という女』第3章「見ぬひと」の一節の直筆であり、碑文は吉野川原産の紅簾石である (=2,700m=) - 顕彰碑
大原富枝と吉本隆明の交流は、富枝の著書『アブラハムの幕舎』を機に深まった。富枝が唯一信頼したのが隆明。隆明が作家として高く評価したのが富枝である。
「―わたしはこの作者こそ『1人居て喜はば2人と思うべし。2人居て喜はば3人と思うべし。その1人は』わたしです、と言える人ではないかと思った」と碑文に刻み、作品を通して富枝の人間性を見極めている。遺言により隆明の著書『最後の親鸞』と共に富枝はここに眠っている。
(=350m=) - 実家跡地
大原富枝が新しい家に移ったのは大正2年・満1歳の時であり、大正9年・7歳まで過ごした。この家は大正11年、吉野村汗見に移築され富枝の療養と生活と創作の場になった。
(=600m=) - 想いでの道
大原富枝の小学校時代の通学路であった。また母・米が孫に逢うため、寂しい夜道を富枝と共に通った道でもあり「川のある蒼い夜」「川の中を歩く月」の作品の舞台となった、富枝と母を結ぶ深い絆の道でもある。
(=210m=) - 生誕碑
大原富枝文学館開館5周年記念として生誕碑を建立。「碑石は原稿用紙の様式にしたい」との富枝の希望に添い、直筆の碑文を黒御影石に刻んだ。碑は富枝の祖母の家の入口に建ち、道路を隔てた東側に寺家尋常小学校と、富枝が生まれた教員住宅があった。
(=270m=) - 花まつり
故郷、寺家地区を見下ろす高台にある金剛寺。
子供の頃の楽しみは「お正月」「神祭」などで、そのうちの1つが「花まつり」であった。空き瓶を抱え、友達と一緒に金剛寺の山門をくぐった想い出深い場所。
(=150m=) - 鎮守のほとり
地元では「若一さん」の呼び名で親しまれており、境内には椎の木が多く、秋には近くの子供たちが椎の実拾いに集まって終日にぎわっていた。大原も子供の頃の椎の実拾いの想い出が強く残っており、幾つかの作品にその心象風景を書き残している。
(=210m=) - 清蔵釣井
泉の所有者・宮村清蔵さんを記念し明治時代に名付けられた清蔵釣井は土地の名泉である。建造年月日は不明。この泉は『祝出征』『蠶飼乙女』『泉のほとり』など、大原文学の初期作品にとりあげられており、大原が故郷の点景として愛し続けた泉である。
(=600m=) - 散歩道
小倉山の裾に添った九十九折れの山路。療養中の大原富枝の散歩道であり、親しい浜田可昌が富枝のもとに通う路でもあった。
(=200m=) - 大原文学芽生えの館
昭和5年から10年間、療養と創作の日を過ごした家。
「十五歳」「女暮し」「祝出征」「納入期」などが生まれた大原文学芽生えの地でもあった。
青春時代の心の支えともなった小倉山、裾を流れる汗見川の流れも、時のうつろいに損なわれることなく、今も往時を忍ばせている。
計5,290m